ぼくらは2度、恋をする
シーツに顔を埋める。強く握った真っ白な布地は、汗を吸って湿っていた。
スプリングがぎしりと悲鳴を上げる。安っぽい音は耳障りだった。
なにより鼓膜を打つわずらわしい音は、自分の喘ぎに他ならなかったが。
「ぁ、あ…、……そん…、しな…いで…っ」
ぐちゅ、と水音が狭く暗い部屋に響く。換気もろくにしていないらしい部屋は熱でむっとしていた。
甘い誘惑に、手を伸ばした。男が「彼」じゃないことはわかっている。けれど。
その瞳も熱い声も、なにもかもが似ていて。
「…ぅ…、や……ラ…しょ…さ…ぁ」
その名で呼ぶことを許されていなかったとしても、きっとそう呼んでしまっていたに違いない。
「…どうした?」
ひとり、星を見ていると声を掛けられた。
真っ黒な空間の中で、星だけが綺麗。この中では人間も人工物も、存在してはいけないような気さえした。
「あ…すみません。起こしてしまいましたか?」
ガラスに映る自分から目をそらして声の主を振り返る。
その顔を見る前に、ぎゅ、と抱きしめられる。あたたかい体温。聞こえる鼓動は、もしかしたら自分のものなのかもしれない。
「しょ…少佐っ?」
「冷たい。ずっとそうしてたの?」
とがめるような声。
目が覚めてからどのくらい経っただろうか。あたたかなシーツの間から抜け出して、ずっと宇宙を眺めていた。
優しく包まれて、体温を分け与えられる。もっとも、体温上昇の理由はそれだけではないけれど。
「フラガ少佐…、…あの…離してください…」
「いやだ」
幼い響きにアスランは困惑する。頭まで抱え込まれているから、そろそろ苦しくなってきた。
身をよじってみても、腕の力は強められるだけだった。
「…なんか…消えちまいそうで」
「…え?」
小さな独白を聞きとがめて、アスランはむりやり頭を上げて相手を見た。
あたたかな蒼が自分を映す。深い色合いに脈が早まった。
「………いなくなるなよ…」
感情をなるべく押し殺した声でそう告げられる。
「死ぬな」とは、お互い言えない言葉だった。
MSを駆って虚空に飛び立てば、そこは戦場だ。そんなことは痛いほどよくわかっていた。
今までに散った命を思い出す。彼らはもう戻らない。けれど、思い出は鮮やかに脳裏を彩る。
なにもなくなってしまったら、それは完全な消滅だ。
この宇宙で、いつかはそうなるのかもしれなかった。
唇を交わす。
その熱を忘れることなんてできない。
彼のひとが、宇宙に消えてしまってからも。
あれから2年。
今、オレはディオキアの埠頭に立っていた。
ユーラシア連邦西部の都市。黒海と呼ばれる海を眺める。
心地よい潮風が髪を梳いていく。
オーブで過ごした時間はものすごく長く感じたのに、開戦してザフトに戻りふたたびMSに乗って戦えば、時はめまぐるしい勢いで過ぎていく。
本当は、今レイだけが残っているミネルバに早く戻らなければならないのだけど。
…もう少しだけ、外の空気が吸いたかった。わざわざ私服に着替えてまで抜け出してきたのだ。
ため息をつく。いろいろなことがありすぎて、疲れているのかもしれない。
深呼吸すると、潮の香りが鼻腔に広がった。
こうして蒼い海を見ていると、同じ色を思い出して。胸が痛くなる。
「なんだか悲しそうなカオしてるね」
「!?」
背後からの声に、アスランは身構えた。感傷にふけっていたとはいえ、これほど近づかれても気付かなかったなんて。
なにより、この声。この声は……
「そう警戒しなさんなって。怪しいもんじゃないよ。ただのナンパさ」
その自称・怪しくない男は、軽い口調で言葉を重ねた。
そんなことを言われても、かなり怪しい。
長身を濃い色のスーツで包んで、髪は肩までの金色。目許はサングラスによって隠されていた。
「ナンパ…?」
怪訝な目を向ける。そんなアスランの様子に男は苦笑を漏らした。
「深く考えるなよ。ひとり寂しそうに海を眺めてるから、声を掛けたくなったんだ」
この声、口調。
…今まで思考に登っていた人物と似てはいないか?
アスランはふと気付いた。
けれど、彼がここにいるはずはない。想いが強すぎて、そう感じてしまっただけだ。
彼は………あの、最後の宇宙で、死んでしまったのだから。
「…オレ、忙しいのでこれで」
さっさと背を向ける。こういう輩には関わらないほうがいいと学んでいた。無視するに限る。
「待てって。お茶の一杯くらい、付き合ってくれない? 奢るから」
しかし。腕を掴まれて足を止める。振り返ると、思ったより近い距離に男の顔があった。
「…あ…、」
そうしてよく見ると。
声だけではない。容貌も…似ている、というよりは、彼そのもののように見えた。
忘れるわけはない。あの短かった幸せな時間を。
もしかして…なんて、男を見上げた。その唇から、自分の名がこぼれたら。
「オレは、ネオ。…君は?」
けれど、その口は違う名を発した。
…当たり前だ。彼は死んだのだ。あの衝撃を、いまだ鮮明に覚えている。
帰艦して、艦内のどこを探しても彼の姿はなかった。クルーの口から、その理由を聞いて。
「ア…レックス…」
動揺しているにしては、オーブでの名前をすんなりと出すことができた。アスラン・ザラという名を、今、地球にいる誰が知っていようか。けれど、用心するに越したことはない。
まったく周囲に浸透していなかった気がする名は、自分の中だけでは確立していたらしい。オーブでオレは、アスラン・ザラを押し殺し、アレックス・ディノになりきっていたのだから。
いつの間にか、ネオと名乗る男と本当に喫茶店に入っていた。男ふたりで入るところではないだろうとも思うが。
屋内に入っても、男はサングラスを外さなかった。
訊くと、
「傷痕があるんだ」
と短く返された。
だから、むりやり否定する。
目の前の男はムウ・ラ・フラガじゃない。似ていて見えても、サングラスの下に海の色はない。
男は自分を知らないし、彼は死んだのだから、ここにいるはずはないんだ。
「きみは、この街のひと?」
「いえ…」
質問は、男もこの街の住人ではないことを示していた。少し口を濁す。
「少し、立ち寄っただけなんですが…」
「ふうん…」
どうとられたかはわからないが、相手が何者かわからない以上、余計なことは話せない。
「あなたは…?」
「ん? オレは取材でね。報道記者なんだ」
探りを入れると、今この場でもっとも不自然ではない職業の名が返ってきた。
この戦時下、その都市に住む者ではなく、いてもおかしくない。
それだけに、逆に偽っているように感じられた。
「ここはいい街だな」
男は感慨深そうに言った。目は窓の外、遠く見える海に向けられている。
「でも、近くじゃ戦闘も起きてるし。今だってザフトの戦艦が停泊してる。街の人には歓迎されてるみたいだけどな。戦争は嫌だな。それをネタにメシ食ってる人間が言うことでもないが」
当事者としては、胸にズキリと来る言葉だ。けれど、悟られるわけにはいかないから、ポーカーフェイスを装う。
紅茶を一口飲んでソーサーにカップを置くと、高い音を奏でた。
「きみはどうして海を見ていたんだ?」
「………好き、なんです。海」
さしさわりのないいらえを返してから、海を見やる。
それは嘘ではない。あの美しい蒼が。たまらなく、好きだった。
「俺の知っている子も、海が好きでね…」
男はティーカップに口をつけてから続けた。相変わらず視線は海を向いていて、まるでひとりごとみたいだった。
「ほっとくと時間も忘れて、ずっと見てるんだよな。夕方になったら呼びに行かなきゃならないんだ」
その口調はなんだかしあわせそうだった。そのひとへの深い愛情が感じられる。
そのとき自分の感情にさした翳りは、ただの気のせいだ。
目の前の男は、「ネオ」であって。
こんな、妬ましい気持ちは、彼に向けられるものではない。
「どうした?」
急に黙ってしまったのを心配してか、男はアスランの顔を覗き込んできた。
「……っ…!」
思わず身を引く。
上目遣いになったサングラスの隙間から覗いた、…海の蒼。
「ん? あ、この傷? おどかして悪かったな」
傷なんか、見えなかったのに。
男は勘違いして、サングラスを外した。
…違う、違う!
自分に言い聞かせて、アスランは椅子を倒すくらいの勢いで立ち上がった。
「すみません、ごちそうさまでした」
視線を足元に落とす。
すぐに顔を背けて、悪いと思ったが伝票を押し付けて店を出る。
「お、おい!」
声は既に遠い。
海ももう見たくなかった。
ただ、つらい。
走って、ミネルバに戻って。
すれ違うクルーに目も合わせず、与えられている部屋に入った。
すぐに施錠をする。
「はあ、はあ…、…っ…」
彼は死んだのだ。2年かけて、やっと理解し、むりやり納得したはずだった。なのに。
違う人間のくせに。
オレの前に、現れるな。
頬に一筋、水滴が伝った。
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